2005.02.15 Tuesday
当コラム「旅のすきま」の更新のペースが遅いと、さる読者(笑)から苦情をもらいました。始まった当初は、3日に1話の割合で更新していきたいと宣言したくせに、最近は10日に1話がやっとじゃないかと指摘されてしまえば、仰るとおりだという外、返す言葉もありません。
僕は言葉と文章にはこだわる方で、したがって、いい加減なものは人目に曝すわけにはいかないと思っています。この「旅のすきま」も、書けば書くほど出来栄えが気になって、7割書いた後で残りの3割に1週間悩んで、完成に至らぬまま結局発表しなかった、ということが、今までにもないではありません。
デキはともかく、学生時代には300枚からの論文を書いたことがありますが、百万言を費やした文章が読むに値するとは限りません。12万字の長文を書くには途方もない労力を要したのだと書く側が威張っても、文脈のない長文など読む側にしてみれば迷惑この上ないでしょう。
多少の例外を除いて、このコラムはおおかた起承転結の原則にしたがっています。最も言いたい「転」のところまで、僕は大抵スラスラ書いて、今度は早く上げられそうだと内心ほくそ笑みますが、その後決まってキーを叩く手は止まります。
気の利いたオチが、なかなか見つからないのです。
朝日新聞の「ポリティカにっぽん」、山本夏彦翁の「日常茶飯事」等々、名コラムと言われる文章には、常に切れ味鋭いオチがあって、自分もそんなオチをつけてみたいと夢を見て、僕はいつも悩みに悩みます。更新するペースは、したがって遅れに遅れます。
そんないいわけを書き連ねているうちに、君が道楽で書く「旅のすきま」ごときにそんな名文は期待してない、グズグズ言わずにペースをあげろと、今日もお叱りの声が聞こえてきそうです。
何日も費やして愚にもつかぬことを書いた末に、気の利いたオチがないこともしばしばですが、今後も、皆さんどうかご容赦を。
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2005.02.10 Thursday
「脳力」(のうりき)という言葉を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。一言でいえば「物事の本質を見抜く力」という意味だと、僕の信頼する論客、寺島実郎氏が、新著『脳力のレッスン??正気の時代のために??』(岩波書店)の中で紹介しています。
日本人は小粒になった、あるいは若者が幼稚になった、というのは最近のことではありません。それに反して、幕末維新の時代は歴史的人物が雲霞のごとく現れて、新日本を創造したと、巷間よく言われてきました。以来百数十年、日本は豊かになって、その結果日本人の「脳力」は極端に劣化していると、寺島氏は著書の中で警鐘を鳴らしています。
日本人の「脳力」を考えるくだりで語られる、中国の作家魯迅と、彼が仙台の医科専門学校に留学した時に出会った、藤野先生とのエピソードは印象的です。
時、あたかも日露戦争の真っ只中、中国人蔑視の風潮が世間に蔓延していた頃のことです。日本語が覚束ない魯迅をみた藤野先生は、周囲の目を気にも留めず、授業の度にノートを朱筆で添削して、悩む彼を励ましました。魯迅は、文学に志して仙台を去った後も、常に藤野先生の恩を忘れず、「惜別 藤野 謹呈 周君」(周は魯迅の本名)と書かれた写真を机の前に貼って、終生勇気の源としたと、小作『藤野先生』に記しています。
魂を揺さぶられるような人物との出逢いがなくなって、自己の未熟ぶりに気づくことがなくなって、したがって日本人は「脳力」を養う機会を失ったと、寺島氏は言っています。歴史に名を残すような人物ではない、ただの市井の人に過ぎなかった「藤野先生」の、ごく自然な配慮が、1人の中国人留学生の心を支え、今も日中友好の礎となっていることに、昔の日本人が持っていた「脳力」を見るのです。
先日亡くなった祖父は、最期の床についてからも、看病で付き添う者に毎朝新聞を読んで聞かせるように頼んでいたそうです。途中読み間違えたりすると「いい加減に読むな」と叱りつけて、最後は看病する者が事前に勉強していかなければならなかったと、母は話していました。
産まれてこのかた、豊かな暮らしをしてきた僕に、そんな揺るぎない「脳力」が身についているのかは、心許ない限りです。自分などまだまだ未熟だと、藤野先生と祖父の話を聞いて、僕は嘆息しています。
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2005.02.01 Tuesday
遙か先だと思っていた三十代が、いつの間にかやってきて半年になりました。自分はいつまでも若いつもりでいるのに、年の波は寄せてくるばかりで、返すことはありません。
大台に乗った途端に体力が気になり始めて、何だか1週間を乗り切るのが辛いとは、誰しも感じることでしょう。飲み過ぎた夜に腰回りが気になり出したのもその頃だと、職場の先輩方も口を揃えて言っています。司馬作品の坂本竜馬は、三十代になってなお驚くほどの健脚ぶりですが、現代のサラリーマンは、体は大きくても、いざ体力となると幕末の風雲児には遠く及びません。
鉄は熱いうちに打てと勃然と思い立って、本当は本を読みたいのを我慢して、僕はジムに通い出しました。「頭ばかり鍛えたってつまらないじゃないか」と人は言いますが、彼の場所へ向かう足取りが重いこと、僕にとっては毎朝の出勤以上です。トレーニングをしてみると、スポーツで鳴らした学校時代はついに遠くなりにけり、といよいよ思い知らされます。僕の体を測定したハイテク機材が、「あなたの体力は40代!」と、無残な結果を宣告します。
祖父が、現役時代のある時、石原慎太郎知事と話す機会を得て、「君は首相になる気はあるのかね」と聞いたことがあったそうです。それに対する石原知事の答えが、「明治維新をやったのは二十代三十代の若者だよ。七十近い年寄りを頼っているようじゃ、日本はおしまいだ」というのだったとやら。
日本を背負うには、今も昔も超人的な体力が要るでしょう。齢三十にして体がすっかりなまってしまった僕は、せめて1週間を乗り切る体力くらいは身につけたいと、今日もジムに通います。
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2005.01.11 Tuesday
サラリーマンのネクタイには、人それぞれの個性があります。意識する人は意識して、意識しない人は無意識に、ネクタイに個性を表します。時には、同じネクタイを平然と3日も続けてしていた人が、結婚した途端にセンスアップした、ということもないではありません。ははあ、新妻に命じられたのだな、と口には出さずに肚のうちで笑った経験が、皆さんも職場であったかもしれません。
僕は、これでもネクタイにはうるさい方で、暇を見つけてお決まりの店に出かけては、時の流行をチェックします。小紋柄やストライプ、無地のものからペイズリ??と呼ばれる絵柄のものまで、ネクタイのデザインは千差万別で、これに生地や織り柄の違いまでを含めると、異なるブランドで同じネクタイというのはほとんど存在しない、と言っていいでしょう。さらに、季節ごとに新しいデザインが登場すること、昨日の新作は今日の旧作というくらい目まぐるしいものです。
お決まりの店、と言いましたが、僕がネクタイを買うのは、1年の内ほんの2〜3本に過ぎません。したがって、あいつはよく来るが滅多に買い物をしていかない客だ、と、店員は怪しんでいるでしょう。何を隠そう、僕は買い物を目的に行くのではない、店員のコーディネートやディスプレーの合わせ方を見に行くのです。そして、いかにもお洒落をしています、といった風の派手な色彩のものとは正反対の、一見ごく普通のネクタイを年に何本か買って、それを通に見せるためにあれこれ考えるのです。
ネクタイのデザインなど自己満足に過ぎない、という声に、僕は反対するわけではありません。にもかかわらずいい加減にしないのは、よれよれのスーツと、よれよれのシャツと、よれよれのネクタイを身にまとったサラリーマンに、仕事のできる者はいないと思うからです。
プライベートでも、いざ勝負!という日には、皆さん服装に力が入るでしょう。毎日の仕事もその意気で臨みたい、と、僕は思うのです。
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2005.01.06 Thursday
折からの雪の中を、新幹線に乗って故郷へ帰りました。年末年始、仕事の場を離れて帰郷する人の群れが引き起こすUターンラッシュは、日本の風物詩です。普段は離れて暮らす家族が一同に会してともに過ごして、年はいよいよ暮れていきます。
さて、久しぶりに家族が揃って、一年間のよもやま話をして暮れていくべき大晦日に、最近割り込んできたのが、民放各局の格闘技番組です。大男達の果たし合いは、“史上最強!”“頂上決戦!”を謳い文句に、大晦日の日本の茶の間を席巻しつつあります。オリンピックの金メダリストや大相撲の元横綱が戦うと聞けば、ファンならずともさすがに興味を惹かれます。今や紅白歌合戦のしっぽは見えた、と番組を作った側は小躍りして、それを観戦した若者は、休みが明けると、あの夜の興奮を互いに回顧します。
ご多聞に漏れず、格闘技番組はわが家の大晦日の夜をも占拠し始めています。おかげで昨年(一昨年?)来、僕は一向に大晦日らしくない夜を暮らしています。
格闘技番組を放映することに、僕は反対するのではありません。紅白歌合戦をむやみに礼讃するのでもありません。ただ、1年を締めくくるべき大晦日に、ちっとも締めくくりらしくない格闘技番組を見せられるのは、胡乱(うろん)だと思うのです。
家族団欒を期待した母や祖母は、大男達の殴り合い蹴り合いに愛想が尽きて、早々に床に入ります。テレビの中の激戦に、年が暮れるのを忘れて熱中した父や息子は、目が覚めても、新しい年が明けたことを忘れているでしょう。
「あなた、時々古いこと言うわよね。」と、元日の夜、電話口で相方が嗤いました。古いも新しいもない、連日家族崩壊を声高に叫ぶテレビが、視聴率欲しさに家族団欒の時間を奪う挙に出るとは何事だろうと、僕は一人抗弁しています。
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2004.12.17 Friday
「ご先祖様は生きている」というコラムを読んだことがあります。仏間の写真でしか知らないご先祖様がまさか生きているとは、ファミコン世代の僕には何ともピンとこない話です。産まれてこのかた肉親を亡くしたことがなくて、生きた先祖としか接したことがないのだから無理もないのですが、先日祖父を亡くした時、僕は、そのコラムの真髄がたちまち解った気がしました。
臨終の知らせを聞いてさっそく駆けつけて、敬愛する祖父の死顔を拝した時、「この体に祖父はいない」と、誰に言われるでもなく僕は直感したのです。前の晩、祖父は僕の眼前に横たわる肢体からすでに抜け出して、目に見えぬ姿となって、集まった親類縁者をどこか高いところから眺めているに違いない、湿っぽい表情ばかり居並ぶ屋敷を漂いながら、俺は暗い話は嫌いだと、あるいは苦い顔をしているのじゃないかと、想像したのです。
祖父を亡くした僕に、「この度はお気の毒さま」「ご愁傷さま」と、皆さんお気遣いの言葉をかけるばかりか、腫れ物に触るような面持ちで話しかける人もしばしばです。その度に「痛み入ります」と言いながら、実は、いわゆる肉親を失った悲しみに打ちひしがれるという実感の薄いことを、僕は、我ながらけげんに思っています。その証拠に、数年間祖父の部下になって、今も町役場に勤める同級生の女子が「ほんとに可愛がってもらった」と泣き出すのを、「あまり悲しまないで」と慰めたくらいです。
悲しむのは、もうあの人とは会って話すことも叶わない、と思うからです。永遠の別れだと思えば、悲しみの情が湧いて涙が止まらないのは人情です。
しかし、僕にとっては永遠の別れどころでない、怠けた時などいつでも現れて、そんなことで俺が超えられるかと叱りつけること、祖父がこの世にいた時よりも頻りになるのではあるまいかと思っています。
祖父はまだ生きている、ただ姿を変えたのみだと、僕は気を締め直しています。
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2004.12.08 Wednesday
君の最も尊敬する人物はだれか、と問われたら、僕は即座に、わが祖父である、と応えます。僕が産まれた時、すでに町長だった祖父は、その眼光たるや、往年の横綱千代の富士を見るようで、子供心にいつも迫力を感じて、これはただの祖父ではない、と内心畏怖していたものです。
長年故郷の町の議員そして町長として、政治家の道をひたすらに歩んできた祖父が、中央では名町長の呼び声高く、かなり名の通った人物だったとは、今の仕事に拘るようになって、初めて知ったことです。
25歳で村議会議員に初当選を果たしてから、選挙に打って出ること13回、51年の間、常に選挙民の信任を失わなかったことに、今さらながら、僕は驚倒しています。しかし、その祖父が、わが故郷の名誉町民の称号を受けるまでになったのは、産まれ持った能力よりも、弛まぬ努力の結果だということを、僕はよく知っています。人間死ぬまで勉強だ、と言って生涯読み続けた本の山が、蔵の中には満ちています。
僕は、祖父に褒められたことは殆どありません。長じて祖父と同じ道を選んだ僕は、年に数回の帰郷のたびに、たくわえた浅学をぶつけて挑もうとしますが、祖父はいつも禅問答のごとき回答で煙に巻いて、「お前なんぞ、まだまだ甘い」と笑っています。それでも僕は、自分こそ敬愛する祖父の志を継ぐ者だと勝手に信じて、懲りずにまたぶつかっていくのです。
その祖父が、先日、ついに天上の人となりました。なんだ、教わりたいことはまだ山ほどあったに、と悔やしがる不肖の孫を、祖父は今ごろ雲の上から眺めて、人に頼るな、あとは自分で考えろ、と言っているでしょう。
生涯の目標を得られたのはこの上ない幸せながら、登るには如何にも難儀な山を目標にしてしまったと、僕は内心、嘆息しています。
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2004.11.08 Monday
プロ野球界初の椿事である選手のストライキまで引き起こした、一連のプロ野球新規参入問題。決着した夜のニュース番組で、某コメンテーターが「旧勢力の流儀に合わせて経営権獲得を目指したY社が、あくまでも新しい流儀を押し通したL社に勝った」と分析していました。いずれも新勢力を代表する両社の雌雄を分けたのは、経営力ではない流儀の違いにあったとは、何とも皮肉なものです。
ここ何十年来、日本では、旧習を廃して、新奇なものなら何でも礼賛する風潮にあったことは、皆さんご承知のとおりです。だから今回も、何処へでもTシャツで現れて、あえて不遜な物言いをする若社長の言動を、新しい新しいと支持する向きが多かったとしても、特に不思議はありません。現に、先に手を挙げた若社長に球団を任せてみたい、という街頭の声が、連日テレビで放映されていたものです。
しかし、新しいものといいもの、儲かることといいこととは、本当は別物だと信じる僕は、若社長の新しい流儀をけげんに思っています。その新しい流儀の甲斐もなく、結局落選した若社長は、当夜のニュース番組で「次に挑戦する時の作戦なら、さっきタクシーの中で考えてしまった」と、飄々たる顔をしてみせましたが、なに作戦などは考えていないだろうと、僕は疑っています。新しもの好きの彼のことだから、きっとまた新奇ぶって、今度はJリーグにでも参入してやろうという腹積もりに違いありません。
近頃僕が贔屓の山本夏彦翁は、40年近く前のコラムでこう言ったものです。
「50年もたってみてごらん。いきりたって言わなくても、現在流布している本たちは、一冊も、どこにも、なくなっているだろう。」
50年とは言いませんが、若社長とその会社が、20年経ってなお健在ならば、僕は初めて、その名と実を認めたいと思っています。
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2004.11.03 Wednesday
しばらく前に、ジョアン・ジルベルト東京公演に行ってきました。昨年に続く来日が実現して、ファンにはたまらない秋というところです。
ジョアン・ジルベルトは、云わずと知れたボサノヴァの神様。1958年に、「シェガ・ジ・サウダージ」で一世を風靡して以来、A・C・ジョビンと共に、ボサノヴァを世界の音楽シーンに押し上げた人物です。73歳となった今も衰えを知らず、声とギターだけで世界中のファンを虜にしています。
僕が、ジョアンの歌声に出逢ったのは学生時代。名盤『ゲッツ・ジルベルト』が創り出す独特の世界にはまり込んだのが最初です。二度目の論文は、ジョアンの声とギターを聴きながら書いた、というだけ、とても威張れるような内容にはなりませんでしたが(笑)、正確なギターとボソボソ囁くような歌声は、論文を書くテンポと絶妙にマッチして、下手な書き手にもリズムを与えてくれたものです。
コンサートの夜、予定した開演時間から1時間近く過ぎた頃に、満場の拍手に迎えられてボサノヴァの神様が舞台に現れました。その奇行ぶりはファンならみな承知済みですから、これくらいの遅刻は芸のうちと、不満を鳴らす向きもありません。
舞台の真ん中に置かれた椅子に腰を下ろして、ギターを爪弾いたところから、ジョアンの名人芸が始まりました。どれも聴き慣れたボサノヴァの名曲を、聴き慣れたCDの演奏からは微妙にアレンジして演奏していきます。歌とギターと楽譜の三者が、軽やかに追いつ追われつする中に進行していく旋律は、実以て世界無類。73歳の頼りない老人が、目の前で紡ぎ出す精緻なハーモニーに、5千人の聴衆は、陶然と聴き入る外ありませんでした。
ある時、ジョアンは「僕が歌っているのはサンバだ」と云ったそうですが、なるほどそうかもしれないと、僕は思いました。いかにも楽しそうに、1人サンバを歌うジョアンのステージを、三たび来年も観たいものです。
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2004.10.21 Thursday
僕の向かいの席に座る女性職員は、父親が作った弁当を持って出勤してきます。彼女は、僕よりも4、5歳若いばかりですから、父親はまだまだ現役。出勤前に妻と娘の朝食を作り、弁当まで持たせて家を出て行くという、女性には羨ましいような父親です。
今年で1人暮らし11年目の僕は、料理をするのはどちらかという好きな方です。結婚してからも、週に何度かは、家族に夕食を振舞ってみたいとも思っています。男子が厨房に入ることは、今の時代大いに推奨されるべきで、それなりのレパートリーを身につけるのは男の嗜みだと、すでに結婚した同期の仲間にも主張しています。
しかし、父親お手製の弁当を美味しそうに食べながら、「結婚する相手は料理が上手な人じゃなきゃダメ」という彼女の感覚に、僕は首を傾げています。疑問を感じたのは、パートナーに料理の腕前を求めることに対してではありません。キャリア・ウーマン志向ではない彼女が、やがて子を持つ母親になったとき、厨房での主役の座まであっさり放棄するのではないかと疑うからです。
大正生まれの祖母からもらったいちばんの愛情は、忘れ得ない「お袋の味」にあったと、僕は思っています。だから、自分の子供にも、母親が作る「お袋の味」を与えてやりたいと願うのです。
祖母は、戦時中に祖父と結婚。我儘な夫と姑に散々苦しめられ、我慢の連続だったと、僕に語ってきました。「お袋の味」は大事だけれど、未来の妻になる人に、そんな思いはさせたくないものだと、僕は2つの願望のはざまで悩んでいます。
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