2006.04.03 Monday
たった11日間の旅にかかわらず、連日のアラブ風にさすがの僕も疲労困ぱい。オランダ・アムステルダムでのトランジット8時間は、心身ともに辛いものだった。あわよくば水の都半日観光をもくろんだところが、案内所の先生に流暢な英語でまくし立てられて、さっぱり要領を得ずに、あえなくご破算。結局空港で過ごすハメになった。
オランダは徳川時代から日本と親交のあった国だから、昔のよしみで大方日本人にはなじみやすいところだろうと思ったが、空港に限っては決してソンナことはない。第一、本屋に行っても日本語の本など1冊も置いてない。市内図もあまり要領を得ない。さらに案内所の先生は仏頂面で早口の英語を喋る始末。僕は東京で見知ったBurger Kingに追われて、ホットコーヒーを飲むのが精一杯だった。
8時間のトランジットを何とかやり過ごして飛行機に乗ったのは、午後2時ごろだった。これから約10時間のフライトだと機内放送があったが、あとは日本に帰るばかりだという安心感がある。日本行きのフライトには当然日本食のサービスがあって、僕は散々悩んだあげく、全部洋食を注文した。日本に帰ったら、第一にラーメンを食うことに決めているから、機内食でお茶を濁してはいけない。
そうこうしているうちに、眼下のユーラシア大陸は、日本まであと3分の1を残すのみとなった。当機はあと3時間で、成田空港に到着する。
<<続きを隠す
2006.04.02 Sunday
僕がアラビア旅行をしたときは、ちょうどイラク戦争の前年でした。「セプテンバー・イレブン」の翌年の、2002年9月。当時はアメリカがいつイラクに攻め込むか、という話題が出始めた頃で、早ければ9〜10月、遅くても翌年2〜3月との観測でした。万が一戦争が起きた場合、どんなルートでアラビア地域を離れるか、なんてことまで調べて出かけた記憶があります。
現地に着いて空港を出たら自由、というけれど、初めてひとり旅で海外に出かけた時は、これ以上の不自由はないと思ったものです。その不自由を味わうために旅をする、というふうに、だんだん変わっていくのだけど。
各地の安宿には情報ノートがあって、自由旅行をする各国の旅人が、旅の情報を書き込んでいます。ノートには、バスや鉄道の発着状況や国境での注意、どこの宿ではモノがよく盗まれる、あそこの角の食堂はうまい、○○トラベルはぼったくりだ、という類の、ガイドブックにはない貴重な情報が満載。ひとり旅では、こんな生きた情報がすごく役にたつんですね。
ヨルダンのアンマンで泊まった安宿では、国境を越えてイスラエルに行くために情報収集に来る旅人が多くいました。この安宿、イラクでの日本人拉致事件が起きた時も、拉致被害者がアンマン滞在中に泊まっていたというので、ニュースにも登場しています。
アラビアは、比較的英語の通じない地域で、空港やホテル、大きな観光スポットくらいしか話せる人はいなかったように思います。それでも、一定の宿泊施設と、一定の交通機関と、一定の治安さえ確保されていれば、旅は楽しむことができる。地名は現地語なので、例えば「ダマスカス」を連呼すれば、その辺の立ン坊が寄ってきてダマスカス行きのバスを指さしてくれます。
その立ン坊が嘘つきで、後でよそ行きのバスだと気付いても、それを楽しむくらいの余裕を持ちましょう(笑)。素晴らしい孤独を味わうために、旅に出るのだから。
<<続きを隠す
2006.03.27 Monday
アラブ地域というと、日本人にはなじみの極めて薄い、遠い異郷という感じを免れない。したがって、1年前のアメリカでのテロのような事件があると、すぐにアラブ人は好戦的で危険な人種だという結論になってしまう。事実、僕のまわりでアラブ諸国に行ったという話は聞かないし、アラブ人と話したという例も見当たらない。そんな状況だから、僕も旅先での治安問題については、多少の不安をもっていたことを、ここに白状する。
しかし、実際にアラブを旅行してみて、アラブ人の性質の穏やかなるには驚いた。殊に僕を日本人と知った時の反応は申し合わせたように皆紳士的で、こちらから頼まなくとも助けの手を差し伸べてくれたことがたびたびあった。
自惚れかもしれないが、こうした旅行中の経験から、アラブ人は総じて親日的な人種だということを、僕は推断する。それは、ジャパン・マネーがこの地域にも進出して、彼らの生活の近代化に多大な貢献をしていること、日本政府からの財政援助が国の経営の助けになっていること等にもよるのだろうが、アラブを訪れる日本人の性質が、欧米人に比べて温厚なことが最大の要因だろう。ペトラで泊まった宿の使用人は、往来でフランス人らしい男に追い払われて、「あれだからヨーロッピアンはダメだ。僕は日本人が好きだ。」と言っていた。
アラブ滞在最後の1日となった今日、僕はアンマンンのキング・タラ−ル通りの辺りをぶらついていて、かかる親日的アラブ人に何度も出くわした。中にはサダム・フセインの国、イラクから来た男がいて、面食らっているところに「Japan is good country!」と握手をされた時には、さすがに僕も呆れてしまった。
今や世界の大国となった日本の国民は、もっと世界を知る必要がある。僕らの知らない世界中の親日家を失望させてはならない。
<<続きを隠す
2006.03.26 Sunday
世界遺産として、日本にも広くその名を知られるぺトラ遺跡は、ヨルダン観光のハイライトだ。連日世界中から観光客が訪れ、ヨルダンの外貨獲得に多大な貢献をしている。映画『インディー・ジョーンズ−最後の聖戦−』の舞台に使われてからは、世界中の注目を集めるところとなった。
ぺトラ遺跡へは、僕のホテルから長い坂を下る。ビジターズ・センターで入場券を購入してさらに坂を下ると、いよいよ『インディー・ジョーンズ』にいう
「三日月の谷」の入口だ。切り立った岩に挟まれた狭い谷をしばらく歩くと、突如として、目の前に薔薇色の大神殿が現われる。ジョーンズ博士が、悪漢たちと最後の激闘を演じた舞台、通称
「エル・ハズネ」。こうして実際に目にしてみると、ジョーンズ博士が追い求めた聖杯が確かにあるらしく思われる岩の大建築だ。一日のうちに、日の当たり方によって50通り以上の薔薇色を呈すというドラマチックな姿は、中東随一の称もある。
そもそもぺトラ遺跡は、紀元前6世紀頃からこの辺りに定住したナバタイ人が造ったものだ。エル・ハズネにはヘレニズム建築の影響があるから、ローマ時代の作というのが定説である。確かに、エル・ハズネからしばらく奥に行くと、
ローマ劇場がある。
ぺトラ遺跡は、岩と砂漠の大地に無数の建造物が点在する大遺跡だ。エル・ハズネから1時間半ほど歩いた岩山の向こうには、
「エド・ディル」と呼ばれる修道院跡があり、高さ45メートル、幅50メートルの威容を誇ったその姿は、ペトラ観光のもうひとつのハイライトになっている。
かつて繁栄を誇ったペトラは、ついに紀元106年、ローマ帝国に併合され、さらに大地震などによって荒廃が進んだ末に、6世紀には人も住まぬ廃墟となった。
今はただ、彼らの造った岩の大神殿が、僕の目の前で薔薇色の輝きを放つのみである。
<<続きを隠す
2006.03.20 Monday
昨晩からの腹痛と悪寒が治らぬまま、僕はダマスカスのバラムケ・バスターミナルからヨルダンの首都アンマン行きの直通バスに乗り込んだ。乗務員の制止を振り切って、最後尾の席に横になってしばらくすると、やがて、シリア・ヨルダンの国境地帯に到着する。もうろうたる意識のうちに出国手続き、さらにヨルダン側にて入国手続きを済ませ、僕はいよいよヨルダンに入国した。
国境から首都アンマンまでは、1時間の道のりだった。国境地帯で2時間も費やしたせいで午後の1時半を回っていたが、アンマンのワヘダット・バスターミナルへ直行。危うくそこにいた乗り合いタクシーのドライバーにだまされそうになりながら、首尾よくぺトラ行きのバスに乗り込んだ。
ぺトラまでは、砂漠の中を行くデザート・ハイウェーと、オアシスの中を行くキングス・ハイウェーの2つのルートがある。僕のバスはアンマンを出て、やがて青い空と砂色の大地が支配するデザート・ハイウェーに入った。はるか彼方の地平線と雲ひとつない乾いた空が、鮮やかなコントラストをなして、どこまでも広がっている。
この辺りは、「アラビアのロレンス」ことイギリス人将校
T・Eロレンスがアラブのラクダ部隊を率いてトルコ軍の占領する港町アカバ攻略を目指した場所だ。あまりの激しい気候に、この砂漠に足を踏み入れることは、古来より神への反逆行為とされ、ロレンスの盟友族長アリも、「神が造った最悪の大地だ」とキメをつけた。
にも拘わらずロレンスは、果敢に砂漠を横断、ワディ・ラムのベドウィンをも味方に引き入れて、ついにアカバを攻略する。
同時代の人物で、ロレンスほど異説紛々、議論囂々(ごうごう)たる人物はいない。しかし
映画を愛する僕は、ピーター・オトゥール演ずるロレンスの苦悩に、彼の生涯を見たいと念願するものである。後の英国首相
W・チャーチル曰く、
「思うに、彼は現代で最も偉大な人間の一人であった。私は彼のような人物をほかに見たことがない。彼の名は英文学に、戦史に、そしてアラビアの伝説の中に生きるだろう。」
アラビアの伝説の中に生きるや否やは別として、ロレンスがかつて命を賭したこの砂漠の風景が、僕の記憶のうちに生き続けることは確実である。
<<続きを隠す
2006.03.16 Thursday
普段からコーヒー好きの僕は、今度のアラビアの旅でコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。苦味が強く、飲めないものには一生飲めないというアラビア・コーヒーを、ぜひ本場で味わってみたと思ったのだ。コーヒーの原産はアフリア北東部かアラビア半島南西部といわれるから、元来のコーヒーの味に出逢えるかもしれない。
で、一日オールド・ダマスカスに出かけた時、僕は小路にある喫茶店に入って、念願のアラビア・コーヒーにお目にかかった。
注文する際にスイートかミディアムかノンシュガーかと聞かれるので、こちらの希望を伝えるとやがて仰せのとおりのが来る。苦味が強いので、カップはエスプレッソを飲むように小さく、ミルクや砂糖のような付属品は一切つかない。カップの中身を見ると、なるほど僕が普段飲むコーヒーよりもドス黒い、透明感のない液体が入っている。僕のガイドブックに、しばらく待って、コーヒーの粉が沈んでから飲めとあるので、それに従って恐る恐るカップを口に運んでみた。
初めて飲むアラビア・コーヒーは、雑味が強くてすこぶる苦い。パルミラで会ったオーストラリア人が、「夜にあれを飲んだら眠れなくなった」と言っていたが、確かに夜などに飲めるシロモノではないと思った。
アラビア・コーヒーの豆は、日本で飲むような粗挽きでない、ほとんど粉のようなものだ。それを沸騰したお湯にスプーンで2杯くらい入れて、さらに1分程火にかける。こうしてカップに注がれると、極めて苦いコーヒーらしいコーヒーが出来上がる。
気候の激しいアラビアの地に暮らしてきたアラブ人が、いまだ世界に一勢力を保っているのは、このアラビア・コーヒーを何百年の間飲み続けたところに原因があるのかもしれない。
僕は、日本に帰って早く日本のコーヒーが飲みたいと思った。
<<続きを隠す
2006.03.15 Wednesday
その昔、神が造った
アダムとイヴが天国を追われて降り立った場所。さらにアダムの息子
カインが、弟の
アベルを殺した人類最初の殺人の現場となった由緒ある場所。それが、今はダマスカスの夜景を一望できるビュースポットとなった
カシオン山です。
最近、ムハンマド風刺画問題でも過激事件が起きたダマスカスですが、普段は治安の良い町です。警察国家だからという事情もあるけれど、シリア人は紳士的な人が多くて、旅のしやすい国。街を歩いても、体感的に危険な雰囲気はありませんでした。まあ、確かに警官の姿は目立つし、「アメリカ人を見たら石をぶつけてやる」と意気込む人にも会いましたが(笑)。
カシオン山はダマスカスの北にあって、山頂は軍事基地、その下が公園になっています。で、夜景を見に出かけた夜は、現地で出会った日本人の学生さんと一緒にヒッチハイクで山へ向かいました。
途中何度か車を乗り継いで、最後のドライバーに「ここから坂を上ったら公園だ。」と言われて降りたのは民家の軒先。そこから裏に回って、道もない急な崖を、「登り切ったところが軍事基地だったらどうしよう」とか言いながら2人ではい上がって、柵をまたいで公園にたどり着きました。何とか無事にダマスカスの夜景を眺めることができたけど、軍事基地だったらスパイ容疑で逮捕されたかも(笑)。
それだけに、ダマスカスの夜景は格別でした。アザーンの声が乾いた風に乗って山の上まで聞こえてきて、アラビアの都市だなぁという感慨がひとしおだったのをよく憶えています。
ひとり旅でなければ味わえない感慨は、やっぱりあるのです。少し無茶したおかげで出逢えた、または見ることができたこと。その感慨が味わいたくて、旅に出たくなるのです。
<<続きを隠す
2006.03.13 Monday
闇の原一面に広がった町の明かりが、まるで宝石を散りばめたようにきらめいている。アラビアの乾いた空気が、僕のいるカシオン山の上に吹き上げてくる。あまり凹凸のないダマスカスの町が放った五彩の光は、そぞろに
「オリエントの真珠」の名を思わせるに十分だった。
今やシリアの首都として中東に冠たるダマスカスは、4000年の歴史を誇る古い町である。一国の首都として、東京の銀座や青山のようにきらびやかな通りもあるが、まずは、オールド・ダマスカスと呼ばれる一帯に足を踏み入れて見るべきだろう。
12〜13世紀以来の石積みの市壁に囲まれた
旧市街は、ローマ時代にその基礎が築かれたというだけ、歴史を感じる街である。
「まっすぐな道」という名の曲がった道は、今はタダの道に過ぎないが、これまたローマ時代以来の古い往来だ。
この「まっすぐな道」から路地に入ると、砂色の日干しレンガの家が軒を連ねる迷路のような一帯に入る。首都の喧騒から隔てられた狭い往来に子供たちの声が聞こえるなども、見逃しがたいアラビア的光景だ。
僕のガイドブックにはないが、旧市街とその周辺には、最盛期で1000以上のモスクが建っていたらしい。そこかしこからアザーンの声が聞こえていたであろう往時の姿を偲ぶのも珍とするに足る。
もうひとつ、オールド・ダマスカスに有名なるが
スーク・ハミディーエである。ダマスカスの歴史始まって以来、このスークはダマスカスと共にあり、現在も無数の外国人、現地人を呑み込んで絶えることなく賑わう大スークである。
アレッポのスークと違って堂々たる大通りに様々な商店が軒を連ねた光景は、「オリエントの真珠」と謳われたダマスカスの大スークたるに背かない。観光客用に多少高級化して、僕のような貧乏人にはあまり向かないのはちょっと残念だが、今後もこのスークは、世界各国人によって栄えていくに違いない。
ダマスカスの夜の輝きと静寂のうちに、僕はこの町が刻んできた4000年の歴史に思いを巡らした。今僕の目の前にあるダマスカスは、その歴史を秘めながら、誇らしげにたたずんでいる。
<<続きを隠す
2006.03.11 Saturday
中東地域の旅に限らず、訪れた町で最初に行くのが市場です。市場にはその町の人々の生活がそのまま表われていてどこも面白い。タイのバンコクやベトナムのメコンデルタにある水上マーケットなんかは、日本人にもおなじみですよね。パックツアーの日程にも、このあたりは必ず入っているものと思われます。(たぶん)
アラビアやペルシア、トルコに行ったら市場見学は欠かせない。この地域はシルクロード交易の中継点になった町が多くて、市場もすごく歴史が古いんです。
中東の中で僕が旅をしたことがあるのは、イラン、シリア、ヨルダンの3カ国。その中でイランとシリアは、紀元前の昔から栄えた地域です。それだけこの辺りの市場は見ごたえがあります。
前回「アラビア城の夕暮れ」ではアレッポのスークのことを書いたけど、イランの古都イスファハンのバザールも印象的。
エマーム広場という、ペルシア帝国の王が造った壮大な広場から始まって、異国情緒にあふれた賑やかな市場が1キロ以上続く。幹線の周囲には、迷路のように幾筋もの小路が伸びて、特産のペルシア絨毯の店や
ガラムカール(ペルシア更紗)の工房、香辛料、金物、雑貨、衣料、食品などのあらゆる店が軒を連ねています。
あのロマンチックな光景を見れば、中東のデンジェラスなイメージはだいぶ変わると思うんだけど。。。
イスラムの市場はだいたいその町の金曜モスク(金曜日に集団礼拝するためのモスク)を中心に発展していった場合が多いんだそうです。今までに歩いたイスラムの町の市場はどれもそうだった。もともとの中心をなしていたイスラム都市の旧市街は、モスクとその門前町の形をとっていたんですね。
次回旅行紀に登場する、ダマスカスの「スーク・ハミディーエ」は、少し趣が違いますが、アラビアの中心地ダマスカスの名に恥じない大スークです。
「オリエントの真珠」、乞う期待。
<<続きを隠す
2006.03.08 Wednesday
アラビアの町が、最もミステリックで最もロマンチックな表情を見せるのは、夕暮れ時をおいて外にない。昼間には強い陽射しを受けた砂色のデコボコに過ぎない光景が、オレンジ色の日を受けて妖艶に輝き出す様子は、日本では到底見られない絵だ。アレッポ城の屋上からこの光景を眺めながら、僕はつくづく旅人たる幸福を感じたわけだが、これも大陸の果てまでやって来たものだけが味わえる幸福である。
アレッポは歴史の町だから、それだけ見どころも多い。僕の安宿がある地区から少し北に行ったところには
アルメニア人街があって、アレッポの名所の1つになっている。
アルメニア人はキリスト教を信仰する。したがって、この辺りは他の地区とは街の趣がだいぶ違っている。アラブの都市の真ん中にキリスト教徒地区があろうとは、ちょっと思いもよらぬことだが、ダマスカスにも同様の街があるから、アラブ人には案外違和感はないのかもしれない。石畳の狭い小路を歩いていて、不意に青い目をしたアルメニア人に出くわしたりすると、何だかヨーロッパの街に迷い込んだような気になる。こんなところも、イスラムの寛容さを示す一例だ。
アレッポ名物として必ず挙げられるのがの
スーク(市場)である。ペルシアのイスファハンやテヘラン、トルコのイスタンブール、同じシリアのダマスカスと並んで、世界でも指折りの規模を誇る市場だ。強い陽射しを防ぐための天蓋で覆われた700mほどの狭い石畳の往来に、途切れることなく商店が並び、裸電球の灯りがこれを煌々と照らし出す。幾百年の歳月のうちに丸みを帯びた石が埋め込まれた路面が、いかにもクラシカルである。
かつて
隊商宿であった一角は、今も商人たちの取引の場として使われて活況を呈している。金にモノを言わせて造った下らない観光名所などには真似のできない歴史の重みと連綿たる人の暮らしが見事に表われた空間だ。
閉門時間を1時間も過ぎた7時過ぎ、僕はアレッポ城を抜け出して、夕闇迫り来る往来から、再びスークの雑踏の中へと足を踏み入れた。かすかなるアザーンの響きが、アラビアの闇の空に揺らめいている。
<<続きを隠す