2005.08.10 Wednesday
ケンジントン・パレスの前にあるラウンド・ポンドのほとりにたたずんで、羽を休める白鳥の群れを眺めていると、自分がヨーロッパの大都会にいることがウソのような、一種清浄なる空気に洗われて陶然たる心持がする。悲惨の死を遂げたダイアナ元皇太子妃の住まいであったケンジントン・パレスは、レンガ積みの素朴な姿で、妃の魂を今も悼んでいるかのようだ。
ピカディリ-・サーカスの刺激的な街並みに大挙して押し寄せる日本人が、ヴィクトリア・エンバンクメントの優雅な並木道や、ケンジントン・ガーデンスの渺茫たる森を閑却するのは、今も昔も同様のこととはいえ、あまり感心すべきことではない。倫敦滞在の最終日を迎えた僕が、ほとんどテムズ河とケンジントン・ガーデンスで過ごしたのは、これらの景色のうちに、普段の倫敦を見ることができると思うからである。
クリストファー・レンが全霊を傾けたセント・ポールの大伽藍を眺めた後に、ヴィクトリア・エンバンクメントをぶらついて、ウェストミンスター・パレスの対岸にあるアルバートエンバンクメントのベンチに腰掛けて、サンドイッチを食べるなどは、倫敦的な空気を味わうには申し分のないコースだ。
さらにウェストミンスターからバスに飛び乗って、行く行く倫敦見物をしながらマーブル・アーチで降りて、ハイド・パークとケンジントン・ガーデンスを散策する。ピカディリ-の刺激的な色彩と、ケンジントン・ガーデンスの鬱蒼たる森やテムズ河の流れのどちらに真正の倫敦が存するかは確かに問題だが、僕は断然、後者の景色を愛する。生存競争のいよいよ激烈な現代においても、なお頑として動かぬこれらの風景がある理由に想いを致すことができたならば、その人は、はるばる倫敦まで来た甲斐があるというものだ。
ピカディリ-に出くわす日本人の群れが、かかる風景のうちにあまり見られないのは残念と言う外はない。陽の射し始めたケンジントン・ガーデンスの森で、僕は今日ある幾多の倫敦的色彩に出逢ったことを、無上の幸運だと思った。
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2005.07.26 Tuesday
「英国の食事はどうしても好きになれない。」
僕の同室になった中国人の雲昭君が、渋い顔をしてそう言った。彼は倫敦で服飾の勉強をする優男で、日本人の僕を見つけて、昨日からいろいろな会話を交わしている。
英国の食事は、一般にまずいのをもって聞こえている。一番の名物は、今僕らが食しつつあるイングリッシュ・ブレックファストだ、などと陰口をたたく者もあるくらいだ。そのクセ料金は概して日本よりも高めで、僕のような貧乏人はいよいよ英国料理に悪印象を持たざるをえないことになる。
数少ない英国料理の中で、比較的僕らに身近なのがフィッシュ・アンド・チップスだろうだ。値段は決して安くないが、まずは英国式ファスト・フードとでも言うべき料理で、往来にもそれを食わせる店が多い。ブロックに切った魚とフライド・ポテトを大きな皿に山盛りにして、ケチャップやタルタルソースで食べる。持ち帰りも自由で、公園のベンチなどでこれを食べる倫敦人もたまに見かけることがある。
あまり知られていないが、ビーフ・ステーキも有力なる英国料理のひとつだ。狂牛病問題でいくらか影響はあったが、依然として倫敦にステーキ・ハウスの数は少なくない。僕も、話のタネにピカディリ-・サーカス辺で1度ステーキ・ハウスに入ったが、10ポンドくらいで立派なステーキが食えたから、倫敦の物価に照らすとあまり高いほうではないと言える。
英国というと、すぐに紅茶を連想する外国人は多いが、最近ではコーヒーショップが爆発的に増えている。日本で見知ったスターバックスのほか、類似したコーヒーショップが往来に目白押しのところもある。紅茶文化を信奉する者の中には、こうした風潮を嘆く向きがあるようだが、僕は倫敦でコーヒーショップが増えることに、あながち反対するものではない。
かつて倫敦ではコーヒー・ハウスが大流行した時代があって、18世紀の初頭には、倫敦中で3000件以上の店が営業していたという説がある。最近の傾向は、倫敦が昔の記憶をにわかに思い出して、21世紀の現代に実践しているに過ぎない。
コーヒー党の僕には嬉しい限りだが、タバコも酒もコーヒーもやらない雲昭君のような者には、あまり有難くない傾向だろうと、僕は街のコーヒーショップで想像した。
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2005.06.23 Thursday
「バスの屋根から倫敦を見よ」
19世紀後半の大政治家グラッドストンは、倫敦の街を評するに、こんな言葉をもってしたらしい。グ翁の名言は、当時往来を盛んに練っていた乗合馬車を言ったものだが、現代の倫敦で実地にこれを体験するとすれば、すっかり名物になったダブルデッカーの赤いバスをおいて外にない。
バスには膨大なルートがあって、倫敦人でさえ空で覚えている訳ではないから、方角を見定めたら、まずは闇雲に乗ってみるがよい。地下鉄で通り過ぎていたポイントとポイントが線でつながって、倫敦のアウトラインを得るには極めて効果的だ。
僕は今朝、宿の前の停留所からバスに乗って2階座席に座り、グ翁のいわゆる「バスの屋根から倫敦見物」を実践しつつチャーリング・クロス・ロードへと向った。
この往来は古本屋があるので有名で、オックスフォード・ストリートからトラファルガー・スクエアに延びている通りだ。行く行く往来を歩いていると、東京の神保町ほど軒並みではないが、ポツリポツリと古本屋がある。漱石も留学中にはここに随分通ったらしい。
中には、革張りの古めかしい本が頭上高くに並んだ横に、梯子が立てかけてあるような店もあって、古倫敦を偲ぶには相応しい往来だ。
古倫敦というと名前があがるのが、新旧ボンドストリートだろう。三百何十年か前に、サー・アーサー・ボンドという人が造った往来だそうだが、古くから倫敦一の贅沢屋町で通っていた。
オックスフォード・ストリートの繁華な辻から入ると、あまり人通りの多くない往来の両側に、金銀宝石、時計骨董その他あらゆる物品の高価な店が並んでいる。日本でも見知ったバーバリーやロレックス、グッチ、アルマーニ、ルイ・ヴィトンの看板も立っている。中には1775年創業と銘打った扉の下のウィンドウに、2000ポンド、3000ポンドという馬鹿らしい時計を並べている店もある。
要するに、昼飯代をいちいち気にする僕のような貧乏人には一番縁遠い往来だ。
倫敦に来てもあまり物などほしがらず、グ翁の言に従って、バスの2階から街を眺めるのが、倫敦においては、最も経済にして効果的なる娯楽である。
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2005.06.14 Tuesday
カノン・ストリートの駅を出ると、道向かいに鉄格子で厳重に囲った石が据えてある。これが有名な倫敦ストーンで、ローマ人が英国の元標として立てたものだ。その倫敦ストーンをシティーの一角に置いているのは、城壁に囲われたシティーが倫敦そのものだったからで、シティーは今も英国経済の中心として世界に知られている。
カノン・ストリート駅からキング・ウィリアム・ストリートに出て北に向うと、ローヤル・エクスチェンジの前に至る。イングランド銀行をはじめ、ビクトリア朝に建てられた建築群が並ぶ重厚な街並みは、大英帝国華やかなりし昔の面影を今に伝える。ピカディリー・サーカス辺りとは正反対の、一種緊張感を保った往来を、ビジネスマンが行き交うなどは、見逃しがたい倫敦的景色だ。皆センスアップされたシャツにネクタイで、いかにも紳士然としているのは、新橋辺のサラリーマンは雲泥の差がある。 英国紳士靴の老舗として知られるGharchが所々に店を構えていて、日本なら7万、8万という革靴を6割くらいの値で売っている。財布の底をはたいて、ようやく3万くらいの革靴を買って得意になっている僕のような田舎者は、シティーでは冷や汗をかかざるをえない。
今のシティーの基礎ができたのは、1666年の倫敦大火の後だ。ロンドン・ブリッジの方へ下っていくと大火記念塔という柱があるが、その近くのプディング横丁から出火した火事は、当時木造の建物が建ち並んでいたシティーを焼き尽くした。
大火後、件のクリストファー・レンとジョン・イーヴリンの両人が都市計画案を作成したりしてシティー再建に当たり、レンガと石でできた堂々たる街に生まれ変わった。レンの新築もしくは改築したものは、倫敦だけで五十余箇寺あるそうだが、その最も壮大なものが件のセント・ポールである。
シティーの伝統で、皇室の馬車が区内に入るときは、テンプル・バーと称する昔の境界で停車を要求されるのだそうな。僕のような平民は、みすぼらしい身なりで歩いていても咎める者もない。シティーの往来には、今も倫敦の平民主義が息づいている。
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2005.06.05 Sunday
倫敦は、ヨーロッパの都会の中でもとりわけ古い町で、その成立はローマ時代に遡る。当時の倫敦は今よりずっと東にあって、倫敦塔を中心に、シティーの辺りに町が広がっていた。倫敦を征服したノルマンディー公ウィリアム、即ちウィリアム征服王は、ここに城を築いて支配の拠点としたが、これが今では倫敦名所の1つとなった倫敦塔の起こりである。
テムズ河を西から下り、ロンドン橋をくぐると、正面にタワー・ブリッジの妖しい塔が2つ聳え、左手に倫敦塔が見えてくる。21世紀の現代にあって、中世趣味の記念碑が並んで建った図はいかにも倫敦的だ。
僕は例のごとく地下鉄に乗って倫敦塔の裏手のロンドン・ヒル駅で降り、倫敦塔へ向った。塔内拝観のためには13.5ポンドという破格の入場料を要するが、これを渋々支払って中に入る。さらに3ポンドで音声ガイドを借りると、お上り連と一緒になって逐次拝観に及んだ。
倫敦塔は、元来は王の居城兼砦として造られたものだが、牢獄としての歴史が長いために陰惨なイメージを免れない。国王ヘンリー八世が愛人と結婚するために断頭台に送られたアン・ブリンの話や、リチャード三世によって暗殺されたエドワード四世の2人の王子の話など、いずれも死にまつわる話ばかりだ。 漱石が「最も憂鬱の2年なり」と言った倫敦滞在で、珍しく『倫敦塔』という小稿を書いたのは、塔の暗い印象と自らの内向的性格の波長が合っていたのかもしれぬ。
僕には、昨夜観たタワー・ブリッジの妖しくも美しい姿が印象されてならない。実際に観るライトアップされたタワー・ブリッジと、夢の中の景色とが目の前でシンクロして、空想の世界が現実に現れたように感じられる。
平和の倫敦には、美しい光景がよく似合う。
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2005.05.31 Tuesday
倫敦市内の交通は、主に地下鉄とバスとに依っている。日本の都会のような地上を走る電車は、市内中心部にはなく、倫敦から外に出る場合に限られている。倫敦の地下は、東京と同様網の目のように地下鉄が通っていて、何処へ行くのにも不便を感じることはない。
往来を歩いていて、「UNDER GROUND」の看板を見たら、それが地下鉄の入口だ。倫敦の地下鉄はいずれも地下深くを通っていて、乗客は長大なエスカレーターに乗ってプラットフォームに至る。地下道は鉄管を埋め込んだような丸天井で、余計なスペースはほとんどないから、洞穴の中を行くような具合だ。
さらに中を走る電車もこれと同じような円形をしていて、車内は両側に人が座ると間を通れないくらいに狭い。またドア付近は天井が低いので、僕のような、あまり背の高からぬ者でも身をかがめなければ入れない。連日の通勤ラッシュで怪我人が出ないのが不思議なくらいだ。
切符は日本の切符の3倍もあるようなやつで、改札の前の窓口か自動券売機で買う。僕のような旅行者は、トラベルカードというのが便利だ。倫敦の中心から同心円状にゾーン1からゾーン6に区切り、1日、1週間、1ヶ月、1年の期間で、それぞれ定期券のように使うことができる。旅行者はほとんどゾーン1で用が足りるから、最も安いのを買えばよい。
地下道を歩いていると、たまに無名の音楽家に出逢うことがある。ギターを弾いて唄っているのが多いが、中にはクラリネットを吹いているのもあり、ヴァイオリンを弾いているのもあり。大道音楽家のくせにどれもなかなかの腕前で、ちょっとチップを投げても差し支えなさそうに思える。
地上の活動のみならず、地下の倫敦を研究するのも得るところ極めて大である。
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2005.05.21 Saturday
かつて「七つの海に太陽の沈むことのない」と言われた大英帝国の栄光を、そのまま現代に保った場所があるとすれば、それは大英博物館をおいて外にないだろう。1753年のスローン・コレクションの公開を基に、ヴィクトリア朝には世界中の植民地からあらゆる種類の宝物を集め、年間700万人と言われる訪問者を迎えている。
ギリシャ式の正面入口を入ると、来館者はグレート・コートと称する大広間に出る。天井ガラス張りの堂々たる空間で、「The Museum」の称に背かない光景だ。グレート・コートの入口を入ってすぐの所にはインフォーメーション・デスクがあって、僕もここで最も安い2ポンドの館内マップを購入して、さっそく拝観に及んだ。
英国はかつて、アジアから中近東、アフリカ、南北アメリカに無数の植民地を保有したが、その世界中の植民地から奪ってきた文化遺産の量たるや、実に膨大なものだ。いずれも国宝級の宝物が並んでいるのだが、それら全部にいちいち感心して観ていたら、1週間を費やしたって観切れるものじゃない。
時間的には旧石器時代から近代、空間的にはヨーロッパから中近東、アフリカ、西アジア、インド、中国、極東までを網羅したこれだけの規模の博物館は、今後造られることはないだろうというガイドブックの説も、強ちデタラメではない。
今のグレート・コートのある大広間は、5年前まで、リーディング・ルームすなわち閲覧室になっていた。ヴィクトリア朝時代に、貧しい学生にも利用の機会を与えるために開設したものであったが、『資本論』のマルクスをはじめ、ガンジー、孫文、レーニンや日本の南方熊楠など、東西の偉人たちも連日ここに通っていたらしい。かつて、ディケンズの言う「みすぼらしくも上品な人々」で満たされていたリーディング・ルームは、規模を縮小しつつも円形ドームの下に再開されている。
上品ならざる僕のような者でさえ出入り自由なのは、実に英国の平民主義の実現である。ルールばかり気にする日本が、官僚主義の依然たるのも無理はない。
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2005.05.12 Thursday
倫敦は、海を50キロほど入ったところに広がっている港町だ。ロンドンの語源はケルト語で「リンデン」、即ち「湖の端」という意味だという説があるが、確かなことは判らない。が、要するに海につながるテムズ河の岸にできた港町で、何処まで行っても、テムズ河と倫敦は一体に考える必要がる。
倫敦の中心に近いところでは、テムズ河はどこも河岸工事が施されていて、散歩をするには最適だ。また、テムズ河から倫敦を見なければ、倫敦そのものを理解することはできないという説もある。
一日、僕はランベスの辺りから今日の目標だったセント・ポール寺院までの道のりを、テムズの流れに沿って歩いた。澄んだ水とは言い難い、濃い泥色をした河の水が、湖の影響で東から西へと流れている。その河岸を、ウェストミンスター橋からブラックフライアース橋までの2キロ近くの距離で、ヴィクトリア・エンバンクメントが走る。日本人観光客があまり興味を示しそうにない河沿いの道からは、一味違った倫敦を観ることができる。
映画『哀愁』で、ヴィヴィアン・リー演じるバレエダンサーのマイラと、若き陸軍大尉ロイ・クローニンが出逢ったウォータールー橋は、今は新しい石造りのアーチに変わってしまったが、2人が観た90年前の倫敦はどんな光景だったのか、というようなことも考えてみる。
そのウォータールー橋から観るセント・ポールの大ドームは、今日も泰然として、建築以来倫敦のシンボルと言われたその姿を現している。
セント・ポールの大伽藍は、1666年の倫敦大火の後、英国一の大建築家クリストファー・レンが、35年の歳月を費やして造ったものだ。内部の装飾などは極めて壮大で、サー・クリストファー・レンが、この事業にいかに想いを尽くしていたかが解る。倫敦を訪れた外国人は、セント・ポールと、この寺を造ったレンの魂に敬意を表した後でなければ、倫敦を離れることはできないとしてある。
僕は、大ドームの頂上にある、垂直83メートルのゴールデン・ギャラリーから倫敦全市を見渡した。このドームが300年来見続けた倫敦は、今日も刻々と変化を遂げながら、未来への歩みを進めている。
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2005.05.07 Saturday
地下鉄ディストリクト線に乗って、ウェストミンスター駅で降りる。階段を上ると、すぐ横にビック・ベンの高楼が天に向って延びている。
と、10時を指した大時計から美妙なる響きが徐に降ってきた。最も倫敦的と言われる鐘の音が辺り一帯に広がって、道行く人は憶えず足を止めて聴き入っている。
英国というと必ず引き合いに出されるのが、このビック・ベンを伴なったパーラメント及びウェストストミンスター・ホールだ。成文法がないくせに、世界一恐ろしいと言われる英国憲法が作られた場所である。
直線と鋭角三角形を集めたゴシック建築の全景を眺めたいなら、ランベス橋からテムズ河を向こう岸に渡ってみるがよい。重たい灰色の雲の、今にも泣き出しそうな倫敦日和の空の下で、パーラメントがその壮麗な姿を見せるだろう。遥か向こうに見える、これまたゴシック調のウェストミンスター寺院の西塔を併せて眺めれば、どんな国から来た人間も、そのあまりの倫敦的光景に寒気がするほどの感動を憶えざるを得ない。
今僕の目の前にある建物は第2時世界大戦後に建てられた3代目らしいが、その発祥となると、11世紀のウィリアム??世の時代まで遡る。その後、1834年の火事で焼けてゴシック風の壮大な建物となるが、戦災を受けて残ったのはウェストミンスター・ホールのみであった。
その昔、ウェストミンスター・ホールからホワイト・ホールの方へ渡った所には、ロンドン警視庁の建物があった。以前ここにはスコットランド王の屋敷があったことから、「スコットランド・ヤード」と呼ばれてホームズの推理小説にも登場したが、ロンドン警視庁は、その名称とともにセント・ジェームズ公園の南側に行って建っている。
残されたパーラメントとウェストミンスター橋と、美妙なるビック・ベンの声が、今も英国を代表して倫敦見物の外国人を迎えている。
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2005.05.01 Sunday
倫敦第一の称のあるハイド・パークでは、日曜の午後になると伝統のスピーカーズ・コーナーが賑やかだ。さすがに議会制民主主義発祥の地だけあって、一般市民に到るまでスピーチの機会が与えられるのは、感心と言う外はない。英国首相の条件にスピーチの優秀さが数えられるのは当然で、歴代首相は、ほとんど例外なく演説の名手である。
ハイド・パーク・コーナーの駅を上がって、公園の南側の門をくぐってマーブル・アーチを目指して歩いて行くと、やがて無数の人だかりが見えてくる。露天の政治家が、台に上って口角泡を飛ばして論じる周りを取り囲む聴衆の群れが、あちらでひとかたまり、こちらでひとかたまり。中には、壇上の弁士に反撃しているのもある。申し合わせた訳ではあるまいが、弁士には黒人やアラブ人が多く、人種問題、宗教問題が中心のようだ。傷だらけの上半身を露わにして、汗だくで反戦論を打っているのもあって、一帯は大盛況を醸している。
議論が白熱している割に喧嘩になりそうにないのは、全体に余興的な要素があるからで、弁士もこれで飯の食い上げになる心配がないからだろう。聖書を片手に真面目に論じている弁士の横で、漫才のような奴が笑いを誘っていたりする。あるいはこの余裕が、100年以上このコーナーが続いている理由かも知れない。
公約を反故にするくらいが何だと言って恥じるところのない日本の首相も、ここで1度演説をやって、民主主義の根本を学び直すが良かろうと思った。
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