2004.07.30 Friday
インドに着きました。一昨日まで当り前に働いていたのに、飛行機に15時間くらい乗ったら、あっという間に別世界。日本を遠く離れた場所なのに、遥々やって来たという気がしません。何だか騙されているような感じが、しないでもありません。
僕が今日列車に乗って着いた町は、インド最南端の町、カーニャクマリ。小さな海辺の田舎町ですが、インド人にとっては聖地のひとつとされ、巡礼に訪れる人が大勢います。
ここは、アラビア海とベンガル湾が出会うコモリン岬にあります。高い波にも拘わらず、インド人が沐浴をする風景が、夕方の浜辺に見られます。
この国がどんな国なのか、まだ、僕にはよく解りません。広大なインドを一言で語るなど所詮無理なことですが、今までに訪れた国のいずれとも違っているように感じます。日常と旅のすきまを抜け出した時、少しは解ることがあるかもしれません。
解ることがあるかどうかはともかく、南インドからの便りを、これからも書いていきたいと思います。<>hare.gif<><><><>
31<>カーニャクマリ名物<> ここカーニャクマリは、インドにある数多い聖地の中のひとつです。北緯8度線がすぐそこにある南の地で、椰子の森と海と太陽とバナナしかない、小さな村。道行く人の穏やかな表情が、実に印象的です。
カーニャクマリで一番の見物は、ベンガル湾から昇る朝日でしょう。この小さい村の、どこにこれだけの人がいたのかと思われるくらいの数が、浜辺のガートに押し寄せ、昇り来る太陽に手を合わせます。人は美しいものを見ると手を合わせたくなるのかもしれません。
また、南国だけにバナナの美味しさは格別です。今まで食べていたバナナは、果たして別の食べ物だったかと思うくらいの味。すでに腹の調子が思わしくない僕には、ありがたい南インド名物になりそうです。
これからもう一度海を眺めに行って、翌朝日の出を拝んだら、11時のバスで次の目的地へ向かいます。。
<<続きを隠す
2004.07.28 Wednesday
サラリーマンの宿命で、社会人になってから、僕は夏休みの限られた時間を利用して旅を続けています。旅ができるだけだけ恵まれている、とは思いますが、旅仲間と話した時などは、昔の自由を懐かしんで気儘が口をついて出てしまいます。学生の頃はと言えば、論文等で多少の制約はあったものの、比較的自由に計画を立てて、しっかり準備をして出かけたものです。
ここで言う準備、とは、心の準備のことです。サラリーマンは、ある意味で決まったスケジュールをこなしながら毎日を暮らすわけで、レールの上を走っていれば給料は確実にもらえる。その意味でラクに生活できる身分です。おまけに、日本は生活インフラが過剰なほどに整っているうえに基本的に治安は良好、国民の間には一定の相互信頼があります。
その日本で気楽に暮らす人間が、見知らぬ国に突然放り出された時の心境は、実に妙なものです。一人旅、特に発展途上国でのそれは、ある意味で毎日が“戦い”なのですが、人の心の持ち様は、そう簡単には変わらない。「日常」から「旅」へとシフトするまでの1日、2日の間、気持ちの中に、どうしても“すきま”ができるのです。何しろ、当地に降りた途端、旅行者のスキを窺う現地人が容赦なく攻撃を仕掛けてくるのだから、そんな時ほど、危険を感じることはありません。
今回も、心の準備は一向に整わないまま、明日から僕は南インドに出かけます。このコーナーは、「旅と旅の間に横たわる日常」を書いていくエッセイですが、しばらくの間、「旅の中のすきま」を、インドからレポートしたいと思います。
<<続きを隠す
2004.07.24 Saturday
名コラムニスト山本夏彦は、その昔、「PR」という言葉を「自慢話」または「自画自賛」と訳したものです。言うまでもなく、「PR」は「パブリック・リレーションズ」の略、すなわち「宣伝活動」「広報活動」と、辞書には出ていますが、夏彦翁の訳は、実に云い得て妙、というほかありません。
日常、世間で行われる「PR」の中に、自らの卑下に終始したものはありません。電車の中吊りで見る雑誌の広告は、何れも面白い読み物のように見えるし、テレビコマーシャルで有名人がビールを飲めば、いかにも美味しそうに映ります。
世の中は、「PR」に溢れています。
ところで、僕は、「PR」??「自慢話」が不得意、というよりも、好きではありません。父親は、口癖のように「不言実行」「能ある鷹は爪を隠す」と云って、小さい頃から僕に諭してきました。自画自賛しなくとも、見ている人は必ず見ているものだ、と。したがって、およそ中身が伴わないのに、すぐに「PR」したがる心情を、僕は好みません。
とはいいながら、黙っていても常に認めてくれるほど、世間は甘くないのも事実。誰しも「PR」に余念のないこの社会では、適度の自己主張がなければ埋もれてしまうことも、ままあるものです。
で、僕は、折々勃然と思い立って、自分が嫌いにならない程度の「PR」を催すのです。
このサイトも、そんな「PR」の一種かもしれません。世間一般の「PR」に堕落しないよう、努めていきたいと思います。
<<続きを隠す
2004.07.20 Tuesday
四月下旬、東京に田中一村展がやってきた。「奄美群島日本復帰五〇周年記念」の一環として、東京の大丸デパートで開かれた展示会に、筆者も足を運んだ。代表作「アダンの木」や「クワズイモとソテツ」の前にたたず佇んで、初めて目前にした一村の作品群に声を失った。作品から醸し出される一村の気迫が、時空を超えて観る者に迫ってくる。潮風を受けたクワズイモの葉が生きたように揺らめき、雲間から洩れる微かな陽光を受けたアダンの針葉は、意志を持っているようだ。「一村は神を描いた」という者もあるが、確かに、彼は奄美の生命力溢れる自然の中に、人間の力の及ばないあるもの、すなわち「Something Graet」でも見ていたのかもしれない。
時は移り、一村が奄美の自然を描いてから三〇年以上が経った。そして、日本は今や世界第二位の経済大国として堂々たる地位を得るに至った。しかし、「大なる文明の底には大なる野蛮がある」と、明治時代に生きたある著名なジャーナリストは言っている。ハイウェーを走るきら煌びやかな新車の群れや、街に溢れる商品をまともに観て感服するばかりが人間ではない。あらゆる野蛮を覆い隠す東京のような大都会の裏には、その成れの果ての姿が露骨に現れた奄美の森の惨状や、かつてウミガメが上陸した汚れた浜が存在することに想いを致すべきである。自らの文明のツケを、自らの働きによって支払うことができない文明の末路が碌な方面に向かわないことは、すでに歴史の繰り返し証明するところである。
かつて奄美の自然に神を見た一村は、果たして、現在の奄美の情景を前に如何なる感慨を持つだろうか。筆者のそんな思案とはあくまでも無関係に、電車の窓から眺めた東京の街は、今日も鮮やかなネオンに彩られてこうこう煌々と輝いている。
<<続きを隠す
2004.07.15 Thursday
環境省によると、全国の不法投棄または違法な保管状態にある使用済自動車は一六万九千台。うち離島分は二万一千台に上る。しかし、これは表向きの数だ。現行の「廃棄物処理法」では、所有者が「有価物」だと主張した場合、それは「廃棄物」の扱いとはならない。従って、外見上いかにゴミと判定されるような代物(しろもの)でも、「廃棄物処理法」上の「廃棄物」とは限ら
ない。
龍郷町から本茶トンネルを抜けて、名瀬市側の林道を入ったところに積まれた廃車の山などはまさにそれだ。古物商の資格を持つ鳶(とび)業者が使用済み自動車を集めてきては、売れる部品を取り外す。部品を外された廃車はその場に積まれていくわけだが、結果周辺に放置された廃車はすでに数百台になる。鳶業者に言わせれば、それらは「商品」であってゴミではない。であるから、不法投棄と非難される筋合いはない。
従って、現実には、環境省の見解よりもはるかに多い使用済自動車が全国の山野に放置されている。離島の場合、処理費用のほか島外搬出の費用が余分にかかるため、なおさら放置を生みやすい。環境省の試算では、鹿児島県全体で不法投棄または違法な保管状態にある使用済自動車数は五,八三三台。うち離島分は二,五二五台。これに対し、名瀬市の試算では、平成十四年度末の市内放置自動車数は三,三〇〇台を超えるという。「廃棄物処理法」の影に隠れた放置自動車がいかに多いかということだ。
法制度の不備によって、かかる事態を引き起こしたのは明白であると言わねばならない。近年におけるモータリゼーションの発達とそれに伴う諸問題に対処するため、ついに平成十四年七月「自動車リサイクル法」が国会で成立、平成十七年一月一日から本格施行の運びとなった。同法以後は、使用済自動車はすべて「廃棄物」扱いとなり、山野に自動車を放置すれば、いかに「古物」と主張しても犯罪となる。現在放置されている所有者不明の使用済自動車をいかに撤去するかという問題は依然として残るが、不法投棄車撲滅に向けて確実な一歩を踏み出したと言っていいだろう。法律施行をきっかけにして、奄美の森の一日も早い原状回復を願いたいものだ。
<<続きを隠す
2004.07.12 Monday
島の西部にある知名瀬地区。集落から農道を数百メートル分け入った薮の中に、天井が潰れ窓ガラスを割られた車が、無造作に放置されていた。昨夜の雨に濡れた車体が、背丈ほどに伸びたススキの間から鈍い光を放っている。
ぬかるんだ畔道をさらに奥に進むと、用済みとなった自動車が山と積まれていた。あるものはドアがなく、あるものは窓ガラスを割られ、またあるものは原形をとどめない程に潰されている。中には錆びが酷くて朽ちているのもある。
佐々木さんの話によると、この場所に放置されている自動車はおよそ三五〇台。引取り業者は特定できているが、土地所有者の合意を取りつけた上で放置しているので、市当局は直接手が出せない。当該業者は、再三指導したにも拘わらず、すでに生活保護を受ける身で、処理が進む見込みは立たないという。
知名瀬地区から車で五分。幹線道路から海岸方向に一〇〇メートル程入った林道脇の林の中に、目を覆うばかりの廃車の群れがあった。林道から下の崖を見遣ると、溢れた自動車が海に向かって雪崩を打っている。車体に「農林水産省」の文字の入ったライトバンが、ひときわ無惨な姿を晒している。
この周辺に投棄された廃車はおよそ二〇〇台。市の指導を受けて、投棄を行った業者は数台くらいは処理したらしいが、その後処理業から手を引いたため、ほとんどがいまだ放置されたままだ。知名瀬地区と同様、今後の処理の目途は立っていない。
<<続きを隠す
2004.07.10 Saturday
琉球の使節が軍隊を伴って海の向こうからやってきて、喜界島を従えたのが一四六六年。琉球の時代は一般に「那覇ン世」と言われ、奄美では平和な時代として認知されている。対して、続く薩摩支配では「黒糖地獄」に象徴される収奪によって、島は大いに苦しめられた。薩摩が奄美を永く生番扱いにしていたことは、奄美に島流しに遭った西郷隆盛が、島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑んだことにも明らかだ。従って、本土では不世出の英雄として衆庶の尊敬を受ける西郷を祀る記念碑が、奄美では一介の石碑とみすぼらしい庵に過ぎないのも止むを得ない。
西郷とは正反対に、大和人で奄美に移り住み、その死後大いに壮尊敬を集めるに至った人物もいる。名を田中一村といい、その死後「異端の画家」として全国に知られることになった絵描きである。生前は不遇続きだったが、死の二年後に開かれた名瀬市での遺作展では、三日間の動員が三千人を超え、広く市民に知られるところとなった。「貧乏でなければ良い絵は描けません」と言って、赤貧洗うがごとき生活を続けた一村は、「歩行訓練」と称する朝の散歩の途中、密林の中に身を措いて画想を蓄え、一端絵筆を握るや鳥肌を立て、血管を浮き上がらせて絵絹に向かったと伝えられる。
一村の作品は植物を描いたのが多いが、筆者はこれを最初不思議に思った。しかし奄美に来てみると、美しい海以上に亜熱帯の密林に覆われた山々に、とりわけ強い印象を受けることを免れなかった。密度の濃い深緑に覆われた、生命力漲る山々の光景は本土ではちょっと観られない図で、作品に命を吹き込もうとした一村が、強く惹かれたのも当然かもしれない。生存中は世間との繋がりをほとんど絶って絵に没頭した一村を、立派な記念館まで造って大切にする島人の寛容性もまた、奄美の大きな魅力のひとつであろう。
<<続きを隠す
2004.07.07 Wednesday
名瀬市屋仁川地区。市役所環境対策課の渡さんに誘われて、こぢんまりした地元料理の店に入った。器量の良いママさんがパートの女性と二人で切り盛りする感じの良い店だ。屋仁川地区は小さな飲食店が並ぶ繁華街で、昼は閑散としているが夜になると仕事帰りのサラリーマンや観光客で賑わう。奄美に来た大和人は、黒糖焼酎で杯を満たしながら島の言葉に耳を傾ける。地元の居酒屋は、異国情緒漂う奄美を実感するに相応しい場所だ。名物料理の豚足などを肴にしながら、話は奄美の歴史や文化へと及んだ。
奄美大島が日本の歴史に登場した年代は意外に古い。史料上の初見は、『日本書紀』(以下『書紀』と記す)斉明三年七月丁亥朔条(ていがいのさくじょう)で、
「都貨邏国の男二人女四人、筑紫に漂泊せり。言さく、「臣等、初め海見嶋に漂泊せり。」」
とあり、斉明三年すなわち六五七年に「都貨邏国」(とからのくに)の人が初めて奄美の風俗を伝えたことがわかる。『書紀』には、その後、六八二年(天武十一年)に「多禰人・掖玖人・阿麻弥嶋人」が朝貢した記事が見え、大和王権による南嶋政策の一端を示しているが、政策の目的が、「版図の拡大・遣唐使の航路確保」にあるのか、「貢納制的支配の拡大」にあるのかは、研究者の間でも意見が分れている。
以後、一時奄美は日本史の表舞台から姿を消すが、十五世紀には琉球の支配下となる。
<<続きを隠す
2004.07.04 Sunday
東京海洋大学の兼広春之教授によれば、海洋ごみは一般に「マリンデブリ」と呼ばれ、海岸漂着ごみ以外にも海面を漂流するごみ、海底に堆積するごみがある。とりわけ最近ではプラスチック廃棄物による汚染が深刻で、世界の海に流れ込む年間数百万トンからのプラスチックが、漁場環境や生態系に悪影響を与えている。しかも、プラスチックはその性質上ほとんど分解しないから、一度海に出てしまえば半永久的に海を漂い続ける。
こうして海を漂った末に流れ着いた様々なごみは、日本の浜や漁港、港湾を埋めている。実は、これらのごみは、内陸部から川を下って海に流れ出したものも多い。国土交通省、林野庁、水産庁が平成十四年度に駿河湾で行った調査では、海岸利用による生活ごみは全体でたったの八%に過ぎず、河川から流出したごみ(木質系自然ごみ八二%、生活ごみ一〇%)が大半を占めるという結果が出た。海岸漂着ごみの内容は、その地域の如何によってかなり差があるから、この調査結果を以て全体を評することはできない。が、内陸部に住む人間は海岸のごみには無関係だ、などというのは問題の本質を理解しない見方で、人間の生活が自然環境に与える影響に対して、全く無感覚なる譏りを免れない。
海岸漂着ごみの処理については、国としての統一的な対策はなく、住民やNPOのボランティアに頼っているのが現状だ。近年、海岸の美化に対する住民の意識が向上してきたことで、全国の延べ清掃活動回数は年間一万八千回を超えるという。しかし、兼広氏によれば、これだけ海岸美化への取組みが活発になったにも拘わらず、海岸のごみは一向に減る気配がない。また、排出者を特定できない海岸漂着ごみは、当該市町村が処理費用を負担するか、「事業系一般廃棄物」として清掃活動当事者が負担するという、馬鹿らしい事態に立ち至る場合がある。どこからともなく流れてきたごみを、被害者であるべき市町村や回収当事者が費用負担して処理するのでは理屈に合わない。国による積極的な対策が待たれるところだ。
美しい夕暮れの光景を観ることができる浜の一隅に、地元の小学生が詠んだという一編の詩が掲げてある。
「黒い浜 歩くウミガメ 泣くばかり」
激烈な生存競争を生き抜いて、卵を産むためにやっとの思いでたどり着いたウミガメを、ごみの山で追い返してはいけない。
<<続きを隠す
2004.07.01 Thursday
黄緑色の実をつけたアダンの木が茂る中を、潮風が吹いてくる方角に向かって歩いていく。目の前に広がる遠浅の海の遙か沖で、クリフにぶつかったうねりが白い波頭を揚げている。そこから珊瑚礁を隔てて筆者の立つ白い砂浜には、穏やかな波が薄紗(はくしゃ)の縮れたようなしわ皺(しわ)を寄せている。空と海との境界は朧気(おぼろげ)な霞のうちに溶け込んで絵画的にぼかされ、見る者に、遠い遠い海の彼方のニライカナイを連想させる。
人間の生存には、一定の空気と、一定の水と、一定の広袤(こうぼう)を要することは魚の水におけるがごとしだが、大都市の人間は、空気も水も自ら造ることはできず、さらに広袤までも今やほとんど奪われて、息の塞がりそうな毎日を暮らしている。で、折々地方の海や野山に赴いて本然の姿を取り戻そうとする訳だが、野山のみならず海の景観もまた、次第に脅かされつつある。
島の南部に、かつて、産卵のためにたくさんのウミガメが上陸したという美しい浜がある。東シナ海に面したこの浜に、南の島の美しさを求めてやってきた都会人は、その予想外の光景に呆然と立ちつくすより外はない。真っ白な浜一面が、大小様々なごみで足の踏み所もないほどなのだ。サッカーボール大の浮き球、漁網やロープのような漁具、ポリタンク、空き缶、ペットボトル、朽ちたドラム缶、古タイヤ、電球、廃油の真っ黒な塊、タバコの吸い殻、また流木や海草など自然のごみ(?)まで、永年海を漂った末に打ち寄せられたものは実に様々だ。台風が通過した後などは、殊に激しい量のごみが押し寄せるという。
その浜は、近隣住民のボランティアによって、年に二、三回の清掃活動が行われている。しかし、半年も経たぬうちにこの有様になるのだという。しかも、国内からのごみ以上に中国語やハングル文字の入った外国からのごみが多いというに至っては、海岸漂着ごみの問題がすでに国際的性質を帯びていることが解る。幾月も波に洗われた末にこの美しい浜に流れ寄るのが、藤村(とうそん)のいわゆる椰子の実ではなく、これら無数のごみであることに、筆者も嘆息せざるを得ない。
<<続きを隠す
1/1